テストによく出る鎌倉時代

1185年 鎌倉幕府ができる

 

1185年に壇ノ浦の戦い(山口県)があり,平氏が滅びます。

その後,勝者の源氏側の源頼朝(みなもとのよりとも)さんが征夷大将軍になって,現在の神奈川県に鎌倉幕府をつくります。

鎌倉は,山に囲まれた自然要塞とも言える地形でした。


<出典:wikipedia

 

 

☆征夷大将軍ですが,初代坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)さんです。なぜかよくテストに出ます。

当時は蝦夷(えみし)と呼ばれた,今の東北地方に攻め込んで勢力拡大した人です。

 

 

鎌倉幕府は,封建制度でした。

封建制度とは,土地を仲立ちとした将軍と御家人(将軍に従う武士)との主従関係のことです。

 

御家人たちは,将軍のために命がけで戦い(奉公),その見返りとして守護や地頭に任命されたり新たな土地をもらったりすること(御恩)を期待しました。

 

現在の生活で例えますと,職場で働いて給料をもらって生活していく,そんな感じです。

 

 

 

<鎌倉幕府のしくみ>

 

鎌倉幕府のしくみとして,よくテストに出題されるのが執権です。

将軍はどこかの幼い貴族を迎えておいて,実際には執権の地位に就いた者が政治をおこなう,よくあるかたちです。

後で再度出てきますが,六波羅探題もとてもよく出題されますね。

 

 

1221年 承久の乱がおこる

 

武士の時代って,例えばジャイアンが一番強いから一番偉いよね,そんな感じです。

でも西日本の朝廷側は,武士の力に頼りつつも,野蛮な武士たちがどんどん権力を付けていく状況が面白くないわけです。

そこで,朝廷側は鎌倉幕府を潰そうとします。それが1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)です。

 

 

朝廷側の代表は後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)。


<出典:Wikipedia

 

 

鎌倉幕府側の代表は,執権についていた北条義時(ほうじょうよしとき)さんです。

名前が良くテストに出ます。

 

 

Q. 承久の乱を起こしたのはだれ?

 

A. 後鳥羽上皇

 

 

 

Q. 承久の乱のときの鎌倉幕府の執権はだれ?

 

A. 北条義時

 

 

 

 

御家人たちは朝廷側に味方するか,鎌倉幕府側に味方するかで悩みました。

(たとえ裏切ったとしても,強い側に味方して生き残りたいですよね!)

 

そんなとき,源頼朝さんの妻の北条政子(ほうじょうまさこ)さんが,「頼朝公の御恩を忘れたのか!」と泣きながら御家人たちを説得するという名演技をします。

 

 

 

鎌倉幕府側の御家人たちは,これで目が覚めてやる気を出し,朝廷側を破ります。後鳥羽上皇は隠岐に流されてしまいました。

幕府は,西国にも勢力を伸ばすことに成功します。

 

 

 

 

その後,西日本の朝廷側を監視するために,京都に新しく六波羅探題(ろくはらたんだい)という役所を設置しました。

これがとてもよくテストに出ます!

 

 

Q. なぜ六波羅探題をつくったの?

 

A. 朝廷を監視するため!  承久の乱みたいな反乱を起こさせないようにね!

 

 

 

1232年 北条泰時が御成敗式目をつくる

 

承久の乱の後,鎌倉幕府は朝廷側の西日本の土地と御家人たちをけっこうゲットしたんです。

ですが,領地が広がって人も増えていくにつれ,いろいろ揉め事が増えてきました。ルールが必要になってきたのです。

 

そこで,当時の執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)さんが1232年,御成敗式目(ごせいばいしきもく)をつくりました。

 

 


<出典:Wikipedia

 

 

 

Q. なぜ御成敗式目を作ったの?

 

A. 武士を統率するため! または 裁判を公平に行うため! など。

 

 

 

1274年,1281年 2度の元寇

 


<出典:Wikipedia

 


<出典:Wikipedia

 

 

1274年が文永の役(ぶんえいのえき),1284年を弘安の役(こうあんのえき)といいます。

元が二度に渡って日本へと攻めてきました。これを元寇(げんこう)といいます。

 

 

一度目は九州北部の博多に元軍に上陸されましたが何とか撃退,2度目は元軍に上陸されずに撃退に成功しました!


<出典:Wikipedia

 

 

しかし,元軍の侵攻を防げましたが,御家人は防衛しただけで,新たな土地は手に入りませんでした

御家人たちは命がけで戦いましたが御恩はもらえず。御家人たちはボランティアだったわけです。

給料がもらえなかった御家人たちは生活に困ってしまったのでした。

 

 

そこで,幕府は御家人たちの借金を取り消してあげることにしました。

永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)といいます。

 

末期によくやる延命術です。うまくいくことはありません。

お金を貸した人だけが損をする仕組みであり,誰も御家人たちを助けなくなります。踏み倒されるだけですので。

 

 

1333年 後醍醐天皇が建武の新政をはじめる

 


<出典:Wikipedia

 

1333年,後醍醐天皇は,政治の実権を朝廷に取り戻すために鎌倉幕府に挑みます。

ちょうど鎌倉幕府は弱っていたので,ついに鎌倉幕府を滅ぼすことに成功します!

その際,後の室町幕府を始める足利尊氏(あしかがたかうじ)さんなど味方に付けています。

 

 

その後,建武の新政(けんむのしんせい)いう新しい政治を始めます。

ですが,武士よりも公家(朝廷側)を重んじたため,武士の不満が高まってわずか2年で終わります。

 

 

その後,60年近くの間,足利氏の北朝(京都),後醍醐天皇の南朝(奈良県の吉野)にわかれて争います。

これを南北朝の内乱といいます。

 

 

以上,鎌倉時代の話でした。

ぜひ他の歴史もご覧ください。

 

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お客様の声

たくさん、褒めていただきました!

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通塾からアスミラへ

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通塾していると遊ぶ時間が限られてしまい、通うのがめんどくさい。親がうるさいし…他人と比べたがるし、親の圧力が半端なかった。

アスミラへ入塾。先生と相談して苦手な所は一緒に授業で取り組んでくれたり、「ここは難しいよね。今は無理してやらなくていいよ」と言われた時は驚いたし、共感して貰えたことが嬉しかった。

本当に逃げていいのかなぁと心配になってしまったこともあったが、遠回りして解ける時期が来たら、先生が再度「前、無理してやらなくていいよって言った所、覚えてる?今ならチャレンジ出来るからやってみない?」と

自分にあったペースで目標設定を相談出来る所がありがたい。

先生のおかげで親に、私の思ってることを代弁してくれたり、取り持ってくれてありがとうございます。

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子供の学習に対して、学年が上がるにつれて親も焦り不安になり、出来て当たり前と褒めることを忘れ…出来ないことばかり目に入り、怒ってしまい悩んでおりました。

授業を拝見すると、「ここの単元が出来ないわけではなく、その前の○○の理解が出来てないので一緒に解いてみる?それとも復習入れとくから取り組んで見てね。」と先生から言われて、つまづきを分かりやすくアドバイスいただけるので親も納得。

次回の授業迄に取り組んだ我が子に驚き、更に先生から褒めて貰えて嬉しそうな我が子を見られてホッコリ。

先生は子供目線の言い分、大人目線での言い分を取り持っていただきながら、我が子に響く声掛けと親の安定剤になっていただいております。

もも

親と子どもの間を取り持ってくれています

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大波先生は独特の話し方で変に顔色を伺うことなく話ししてくれるようで、先生臭くなく、子どもも話しくらいしてもいいかと気を許しているのかなと思います(えらそうですみません)。

たくさん書きたいことはありますが、くどくなるのでこの辺までにとどめます。

本当は星5つ付けたいところですが、まだ上がる余地を残すという意味で星4つ。

こば犬

ご家庭レビュー,お待ちしています!

中世鎌倉時代

Posted by asmira2